アメリカで弁護士と戦う

24JAN.2003 ミャンマー、ヤンゴンにて

REV−3: 28.APR03
NJの写真追加

米塚廣雄

社長から学生へ・・アメリカへ夢を求めて

時は1988年・・・・29歳で独立して、小さな電子機器設計会社を興し十年程やってみたが進歩の早いこの世界・・毎日の生活と金策に終われる日々・・ 

40歳にもなれば,誰でもこの先の人生がどう展開するかおおよそ見えてくる、「10年後には、こんな地位でこの位の収入だろう・」と、漠然と将来を考えるとが・・その反動として今後も毎日が単純な繰り返しで、そんな日々が70歳まで続き、そして自分の一生が終わっていくのか・・と、思うとなんだかとても寂しさを感じた。もちろん、一般的にはその確かな収入増と地位の確定を目指してがんばる人生が楽しいと言う人が多いのが大多数の日本人だろうが・・・

現実に戻り会社の将来を考えた場合果たしてこの先十年したら飛躍的に会社は大きくなれるだろうか・・と、自問した時、まーそんな実力も資金力も自分にはないだろうし、それよりも人を使う事、人の心の問題に触れることに疲れてしまった。 「滅私奉公」が日本社会の美徳とされ「会社の為・・・」と言えば何でも許されるのだろうか? そんな時代がずっと日本では続くのか?
 そんな疑問が常に頭にあった。 私は21歳の時に家を建てるために朝牛乳配達をしてから会社へ行く2重生活をしていた、そうでもしなければ家など持てなかった収入であるからだ。 その時借りた住宅金融公庫の18年ローンが払い終えたのが39.6歳であった。 借金と言う心の縛りであった住宅ローンから開放された時、「あーこれで金銭的に縛られるの物はもう無くなった。」との安堵感はあった、そして時一人者だったので男としての妻とか子供に対する責任がなかった。結婚しないこと、できないことは確かに人生において愛には恵まれなかったがその分考えてみれば人より自分には大きな自由があった。

しかし自由気ままに生きてはいけない・・・でも、もう人を使う仕事はあまりしたくない、が実際は稼いで食べなくては・・それではどうするのかと考えた結論は、今までの電子世界で生きてきた経験を生かして「技術翻訳」になれれば、その仕事に必要なのは、紙と鉛筆、それに総合的専門知識である、これさえあれば一人机に向かい・・自分一人だけで仕事ができる、そうだ! 今後はこれで行こう!・・根暗かもしれないがもう人を使わずに済む、と単純に今後の人生を描いてみたのだった。

とは言うものの自分は工業高校の落ちこぼれ組,英語などすっかり忘れている、でも、この第二の人生目標達成の為にはまず英語を基本から学ぶ事から始めなくては、と意識して40歳で学生になろう、と考えその結果会社をたたむ事を決め、そしてアメリカへの語学留学のステップへ入った。

 当時の日米間にはビザ免除のプログラムは無く、長期の学生ビザは当然留学生ビザの申請が必要である、その為東京赤坂にあったアメリカ大使館へ申請と面接に行かなければならなかった。

実際、東京赤坂の米国大使館へが行ってみると窓口には申請者が並んで待っていた、そして一人一人時間程をかけて丁寧に申請者の申請理由と目的の具体的説明に矛盾がないかポイントを押さえた鋭い質問を投げかけて面接していた、と、言うより振るい落としていた感じである。 実際、順番を待っている私の目の前の申請書二人が20分位時間をかけて面接、質問された後、連続してビザ発行を米国側から拒否された。
 この厳しい現実を目の前にして私も多いに緊張した、が
,面接で大使館員へ「自分は今まで電子技術者として生きてきた、日本は製品を輸出しなくては生きていけない国である、しかし、アメリカへ輸出される製品の取扱説明書は米国の友人に言わせると“日本の製品は素晴らしいが取扱説明書はひどいもので、とても製品を分かっている人が書いたとは思えない”との事なので今後は自分の今までの経験を生かしてこの分野で仕事をしたい,だからまずは米国で改めて英語の基本を勉強したい、その結果は必ず日米双方に役立つはずだ。」と、説明した・・大使館はこの説明を納得してくれて10分ほどで5年有効の留学ビザを発行してくれた。
 心配した「何故この年に成ってまで米国へ留学したいのか?」等、年齢のこと等は一切聞かれなかった。
目的に対して明確な説明があればそれで十分、年齢、学歴等は問わないとの事であった。

1988416日、何と前日の夜までは今までの会社の取引先と打ち合わせをしていたのだが、朝一番700時の新幹線であわただしく浜松を離れ、成田から留学先のロスアンジェルス/LAXへ向かった、手荷物は辞書3冊+日本語ワープロだけあった、なぜなら多くの日用品は日本のスーパーであるLAXヤオハンで買えるのを私は既に知っていたのでそれらのコマゴマした物は全く日本から持っていかなかった。


  米国の入学前に過ごした、カリブ海 仏領セント・マーチン島 マリゴ港

LAXウイシャーブルバードにある語学学校へ入学手続きをした後、学期の始まるまでの時間を利用してカリブ海のプルトリコ、アンギラ、セントマーチ、グアダルーペ等へ飛んだりして趣味のアマチュア無線を楽しんだ。 そして、いよい6月からLAXでの語学学校の生徒としての生活へ入った。

私のクラスの半分は韓国人、南米、中米、欧州そして日本人の合計18人で構成されていた。私はもう何十年も学生生活から離れていたし、日本の学校でも英語は得意ではなかった。 そんな私のLAXの学校での最初の質問は「英語は何故複数形にいちいちsを付けるのですか?」だった、と今でも覚えている,何故ならその答がいかにもアメリカ流の考え方、所謂カルチャーショックを私に与えたからだ、先生曰く「え!日本語って単数と複数を区別しないのか? だって机の上にりんごが一つある, an apple on the desk とリンゴが沢山並んでいる apples on the desk, では物理的に見ても全然状況が違うではないか、日本人は何故それを区別しないのか?」との答えにはショックを受けた、まさに論理的でかつ基本的発想の違いを感じさせる英語の発想・構文の違いに驚かされたものだ。このときの感動、ショックはその後のアメリカ的物の見方に関して大いに役立っている。



   フリーウエーで追突される。



学校の
1学期(3ヶ月)が丁度終わったころであった。私の日本での最後の仕事は日本のN社のポータブルFAXの設計を手伝ったことである、そのN社の営業部長から電話があった、その製品・ポータブルFAXが日本のNTTの認証を受けた事と、それを米国で売り出すことになりニュジャージー州/NJに販売拠点の子会社を作ったので、私にNJの会社へ来て欲しいとの事であった。詳細はLAXへ飛ぶのでそこで打ち合わせしたい、との電話であった。

そこで私は打ち合わせのためにLAXの南のオレンジカウンティーのホテルへ向かう為にパロスバーデスの自宅からサンディヤゴ・フリウエーを南に下った時の事である、フリーウエーのオレンジカンティーの出口が混雑していて本線まで車の列ができていた。交通停滞であった。その時である・・ダッジのワンボックス車が僕の
スバルジャスティのお尻へ襲い掛かってきたのだ。
 車はほぼ半分に押しつぶされてしまった。誰かが救急車を呼んでくれたのだが、その救急隊員が私の車がグチャンとなっているのを見て「オ!!これで良く生きてるぜ!」と叫んだくらいだから如何に車は大破されたか分かるだろう・・でも、シートベルトはしていたので体は外観的には無傷に見えたが・・とにかく救急車に運ばれて病院へ・・



これでよく生きてる! と救急車隊員に驚かれた事故に遭った私の車。





 病院で簡単な問診の後、本格的な診察、レントゲン部屋へと回されたが決定的なダメージはなさそうであった。(このとき初めて救急車は民間企業、そして最初の軽い問診、と本格的診察とは別経営の病院で、救急車、病院-1、病院-2からそれぞれ別個に後で請求書が届いたのには驚いた、さらに極めつけは破損した車は現場からトレーラーで民間の駐車場へ運ばれており、そこからも長期駐車料金の請求書が来たことだ! 流石・・分業とはコウいうことか? とにかく何でもお金のアメリカだ。

ところが事故翌日になると首に根っこが生えたような感じになり、首が回らなくなってきた!とにかく首がコンクリートで固められた様な感じだ、首単独では回らなくなり振り向く時はまるでロボットの様に体全体を回転させなければならなかった。
 そうかこれが所謂「鞭打ち症」という奴か!初めて気がついた訳である。
 それからほぼ3ヶ月間整形病院とかカイロプラクティスに通う事になりN社の依頼であるNJ行きは当然日延べされた。

この事故がアメリカの弁護士と戦う事に・・

このおかげでで当時の住まいであったハンバーガーヒルとあだ名されたLAXのパロスバーデスから日本人町のトーランスにある病院へ治療に通う日々であった。 しかし愛車はもう無くなってしまったし、今の足はレンタカーである、また治療費も現金が必要なので銭が無ければこの先不安である。そろそろ事故の加害者に請求を起こして早く損害賠償金を支払ってもらおう、と相手に連絡を取ろうと考えた時、待てよ!ここは訴訟大国アメリカだ!私にとっては大金の100万を越す賠償金の交渉である、まだなれない英語で銭の交渉で失敗してはいけないと考え慎重を期すために弁護士を立てて交渉しよう、と、考え日本語版イェローブック/即業別電話帳を参考人にLAXの弁護士を探した。 
 当時は既に米国では弁護士の広告活動が許されており「日本語で何でもご相談下さい。」との広告が目に付く、がその中で何と事務所があのガラスの外観で有名なボナベンジャーホテルの中にあるとの広告の事務所があったのでこの法律事務所を尋ねた。
受付で応対に出たのはヒロコと言う30歳くらいの日本女性だった。

 事故の経過と相手の住所、保険会社等を確認すると契約書を出してきた、話には聞いていたが弁護士費用は成功報酬で30%が弁護士の取り分である、従って「なるべく長く病院へ通って治療費総額を高くして下さい。」が弁護士側の指示であった。

 2ヶ月ほどして自由に歩けるようになったのでN社の依頼でNJへ移ることに決めた、12月にNJのフォートリー市と言うニュヨーク市とは橋を渡っただけの隣町へ引っ越した。なお、この時点ではまだ週2回ほど治療に通っていた。

 NJに移ってから、N社から家と車が出たので生活には困らなかったが、事故の保険金が未だに支払われなかった、治療費継続中で最終支払い額が清算できないにしても、既に判明している車の賠償金が80万円ほどあるはずである。
 何度も
FAXでLAXの弁護士事務所へ催促するが、「まだ保険会社より支払われていないしばらく待ってくれ、それよりそちらでもなるべく長く医者へ通って金額を増やすように・・」とのお達しである。

 そんなことでLAXの事故からNJへ移って既に事故から1年を迎えようとしていた。NJでの通院も終わったので全てを清算すると請求額は$160万円位になるので、この額を直ぐに清算して欲しいと弁護士へ連絡したのだが、なぜかこの頃からFAXの返事がなくなってしまった。



LAXから移ったNJーフォトリーの家、夜ならNYCの5番街〔東京で言うならば銀座へ18分で行けた。)



リスの戯れるNJの家のベランダでワープロで訴状を打つ著者。



弁護士が保険金詐欺を!

 まさか!と思いながらも1ヶ月間に3度以上弁護士へ督促し続けたがなしのつぶてなので、流石に私も心配になり友達へ相談することにした、その友達とは、私の趣味のマチュア無線で知り合った米国人の友達でサンフランシスコ/SFOで法廷弁護士とIBMの顧問弁護士をやっている二人である。そして、彼らがロースクール時代の同級生で今はLAXで弁護士をやっている友人を紹介してくれた。そこでNJから休日にLAXへ飛んでその弁護士と打ち合わせた、事態はここに至り「弁護士を調査する弁護士」を雇う笑い話のような事になてしまった。

 そしてしばらくしてきた調査報告書はまさにアメリカ物語!! お前の雇った弁護士は今コカイン中毒で病院に居る、お前の保険金である車の賠償金$8,000は既に支払われている、残念ながら多分それは全ては彼のコカインに化けてしまったようだ。」なんとまー 実に映画チックな話ではないか・・まさにここはアメリカではこれが日常茶飯事の紛れもない現実なんだとイヤというほど知らされた。

 
   弁護士が事務所を構えていたLAX 中心にある、ボナベンジャーホテル

 これは困った今はNJで働いているが1年でここでの仕事を終わり、その後憧れのカリブを旅する資金にしようと予定にしていた虎の子、大金160万円である。

イカン! ここのままでは1年後は文無しになってしまう。・・・そうかと言ってこのまま泣き寝入りもシャクだ! そんな事自分の人生観に合わない、何とか金を取り戻そう、と決意した。

そこで必死になってアメリカの制度を勉強したら、アメリカでもやはり日本と同じ弁護士を開業するには弁護士試験に合格するだけでなく弁護士協会に入らなければ開業できない、そしてその入会時に弁護士保険/デポジットに入らなければ会員になれず事実上営業できないのだ。(この例は日本の不動産の例で見られる、つまり業界には問題のある業者が時々居るので、お客が不動産取引で損害を被った場合協会が悪徳業者に代わってその損害を協会が補償する、と言うシステムである。 用するにそれだけ悪徳弁護士が現実的にアメリカには沢山いるとの証明でもある。)

その申請先がCalifornia State Bar カリフォルニア弁護士協会である。(ある探偵小説ではこれをカルフォルニア.バー協会と訳した本があった。)。

早速申請書を取り寄せて辞書を引きながら被害届の補償金の申請書を書いたが、そこはそれ日本語でも同じだが一般会話用語と法律用語はやはり米国でも違う世界の言葉なのである、ここはやはりネイティブライターの力を借りなくてはならない、そこでまたもや米国人の友達の助けを借りることになった。友達とは今度も同じでアマチュア無線の米国の友人であるが、彼はオハイオ大学―ハーバード大学―東京大学と学んで今は日米のコンサルタントと活躍している人である。幸い彼はコネチカットに住んでいて私の住んでいたNJとは車で2時間弱の距離であった。

彼には英語と日本語の両方の申請書の原本を見せそれらしいお堅い法律用語をちりばめた米国語に訳してもらい、それをカリフォルニア弁護士協会へ送った。

ちなみに彼は相当日本語がわかるのでこんな質問をしてみた。  

「僕が米国へ来て感じることは“主張する国アメリカ” 日本での美徳である沈黙は米国では自分の存在、価値を否定することに接ながる、と感じている。これは日米間の大きな考えの違いだ・・そんな背景だから、もしかして米国には“奥ゆかしい”と言う日本で言う美徳的意味を込めた単語自体が存在しないのでは無いのか?」
 彼はしばらく考えて・・答えた。 「確か英語にもそのような言葉はある・・でも今は誰もそんな言葉は使わない。」

 カルフォルニア弁護士協会へ申請してから2-3度催促したが6ヵ月後にカリフォルニア弁護士協会から連絡が来た、相手は反論してこないので自分の主張が全面的に認められ損害の90%が保険で支払われることになった。 
 やった〜!!

弁護士をブタ箱へ・・ 刑事告訴を目指したが・・

 NJの仕事を1年で終え、あの世界地図でみると米粒のような憧れのカリブ旅行を6ヶ月ほどかけてウインドワード、リーワード諸島の19の島々をアマチュア無線をしながら旅して再び米国本土のへ戻り、NYCからLAXへ飛んだ。LAXへ戻ると再びあの事件を思い出した、例の悪徳弁護士事件はどう考えても納得が行かない、確かに金は帰って来たが、このまま放っておくのはいかにもシャクだ。そうだ彼を刑事告訴しブタ箱へ入れてやろう! と、思いLAX警察へ告発状をもらいに行ったが・・なぜか言葉を濁して事件を取り合わない。私の英語が通じないのかと思うとどうもそうではなさそうだ・・その理由は

1」弁護士の告訴は相手が相手だけに警察も厄介で面倒くさい、そんな事   件は本当は扱いたくない。

2」日本人は公判が始まるころには帰国していなく出廷できなく、と成ると公  判判維持が難しい。

が、どうも本音のようだ。・・・う・・ん、流石のアメリカも保身的ご都合主義か・・

 弁護士を訴える。 

でも、ここで諦めては今後も甘い日本人の被害者が続出する恐れがある・・これではLAXは悪徳の栄える街になってしまう。何とかこの悪徳弁護士をとっちめる方法はないか? 正義感が燃えてきた。  
 そこで
直接刑事告発ができないのなら・・ちょっと回り道を・・と、恩いついたウルトラCがカリフォルニア弁護士協会の会員資格剥奪提訴である、日本と同じで弁
護士協会に会員登録できなければ結局業として弁護士が活動できなくなるのだから、この会員資格を剥奪すれば結局彼の息の根を事実止められることになる。   そうだ!この手で行こう!!

そこで早速カリフォルニア弁護士協会へこの悪徳弁護士の「会員資格剥奪嘆願書」を出した。これは裁判で言えば同じ事件を、先に民事で勝訴して(同じ協会で事件は審査され既に事故自体の保険金は支払われているので)その民事事件の判決を元に刑事事件として告訴する手法である。なにせ民事の方は同じカリフォルニア弁護士協会で審査され私の主張が通り保険金が支払われている事実があるのだから・・・

しかし、申請してLAXに居る1ヶ月の間にカリフォルニア弁護士協会から何の連絡も無かった、既に手持ちの金はカリブ海旅行で使い果たしていたので、また貧乏人に戻った私は4年ぶりに日本へ出稼ぎに戻ることにした。時は1992年に成っていた。



 日本で見つけた就職先はN工装と言い本社は東京・新橋にあった、また下宿は北区の東十条のアパートに決まった。しかし、日本へ戻り直ぐに会社の服装標準の不文律に戸惑った、4年間主にトロピカルな国でTシャツとGパンで暮らしていた私が強制的に夏でもスーツ標準装備の生活に変わってしまったのだ、その為、各シーズン毎に買い揃えるスーツ、シャツ、ネクタイ、靴など毎月出費が重くのしかかり、最初の1年間は全く貯金ができなかった。んんん・・・これでは簡単にはカリブ海へ戻れない。

 そんな生活が始まって数ヶ月、日本での仕事もなれたある日、国際電話が会社へ掛かってきた、あのカリフォルニア州弁護士協会から私へ直接電話が掛かってきたのだ。
 例の訴状が受け付けられ審議を開始するとの事であった。裁判長はエドワードと言う女性だった。電話の要点は

 1」この悪徳弁護士は問題があり他の日本人から多くの被害報告が協       会へ出ている。

2」しかし、相手も法律のプロ故に的確な証拠を掴ませなかった、  だが、  貴方の場合は全ての記録がFAXで残しているし訴えの論点 も明白であ る。したがって我々は貴方のケースを基軸としてこの弁護士に対する弾劾 裁判を進めることにしたので貴方にぜひ協力して欲しい。

3」そこで我々は貴方が既に日本へ帰国している状況を踏まえて、特別に  日米間で電話で尋問してそれを調書として採用できるように、州から連邦 裁判所へ特例を申請中である。

訴状が受理され審議が開始された事にほっとしながらも、3」にはビックリした。 これを聞いて私が直ぐに思い出したのは例の田中角栄・ローキード事件のコーチャン証言と検察庁の尋問調書である、当時は日本の検察が米国で尋問した調書が日本の裁判所で有効か、嘱託尋問は法的に適正か? 裁判で争われた記憶が私には有ったからである。

「分かりました、大変嬉しい知らせです、でも私の為に連邦裁判所までわざわざお伺いを立てなくても良いですよ、幸い、今の日本の会社はカルフォルニア/CAのR社の代理店をしていますからその関係で私がCAには行く機会があります、その時日程が合えば私の方からば裁判所を訪れます。」「ご協力ありがとう、それでは貴方がCAへ来られる日をお知らせください、我々裁判所は尋問の日程は貴方の都合に合わせます。」

あまりの柔らかな発想と即断に驚いたものだった。
しばらくすると補強質問の書状がきたのでそれに回答を送った。

  ホテルがたちまち法廷に

そして、我社が代理店をしているCAR社の会社の製品の技術講習会の為私はCAのウッドサイド市へ出張することになった。(ここはあの昔、加山雄三のバックバンドだったランチャーズのギターリスト北島修と女優の内藤洋子が結婚して住んでいる町である、今の人なら女優・北島舞の両親と言ったほうが分かりやすいか?)

R社での仕事が一段落したのでカルフォルニア弁護士協会のエドワード裁判長へ連絡したら、私の泊まっているヒルトンへ2日後に来るとの事であった。

約束の時間より少し早く彼女は私の部屋をノックした。彼女は30歳ちょっとの明るい感じの女性であった。少しの雑談の後、彼女は「バスルーム借りて良い?」と言ったので「貸してあげるけど持ち帰らないでね・・」と返事した。笑いながら部屋へ入って行った、そして5分後になんとあのイカメシイ黒の裁判服に着替えて出てきたのである。 ちょうどその時あたかもタイミングを見計らった様にドアーがノックされ二人の男性が入ってきた、それは裁判所の書記官と、公式通訳の二人であった。

それぞれ自己紹介したあと、彼女が机に座り、私はベッドに腰掛けてのスタイル、そして彼女があの議長ハンマーで机をたたいて「ただいまよりカルフルニア州法・第xxによりここをCA州公式法廷と宣言します。」この一言でホテルの私の部屋が裁判所になってしまったのだ。

これにはビックリ!! ブッタマゲター !! 何と柔らかい法律なんだろう。

日本の刑事TVドラマで見た「ちょっとお話を聞かせてもらえませんか?」とあくまで任意を装いながら実は強制連行と変わらない、強制尋問・・そんな国・とは、まるで逆ではないか・・このホテルの一部屋が彼女のこの一言で一瞬でカリフォルニアの公式裁判所になるとは・・まるでシンデレラ物語のかぼちゃが魔法で馬車に成るみたいなおとぎ話ではないか!!

 続いて米国映画で見た一コマの様に異国人の私も聖書に手を乗せ裁判長に向かって「私は神と正義に基づいて真実を述べます。」と、宣誓させられるのである、ここで知ったことは公式通訳も同様に「私は神と正義に基づいて真実のみを通訳いたします。」と宣誓させられることであった。

これからは日本の裁判と同じである・・いや日本が明治時代に諸外国の制度を真似したのが今の法制度だからそれは当然の話なのだが・・

公式通訳の人は日系2世の60歳台の人であった、そして尋問開始を前に彼はそっと私に耳打ちしてくれた「貴方は英語が分かるようだが、通訳を介して答弁するほうが絶対得ですよ、何故なら裁判長の質問を聞いてた時点で貴方は既に質問内容を分かっているのですか、私が日本語に訳している間に貴方はその答えをそつなく論理的に答える準備ができるのですから..」
 全くその通りである。

日本でも同じだが検事が、弁護士が法廷で反対尋問で矢継ぎ早の質問を相手へ浴びせるのは、相手に考える余裕を与えず失点を誘うための法廷テクニックでもあるのだ。

名前は、住所は? お決まりの質問からいよいよ確信へ

[このFAXの記録は貴方のものですか?]
●[YES、私が発信したものです。]

FAXの返事の相手は“”被告の弁護士からですね・」
●「その通りです。」

[これによると、弁護士は保険金はまだ保険会社から支払われていないので貴方に払えない、と言ったのですね・]「そうです、でも1年も経ったのでそれはおかしいと他の弁護士を雇い思い調べました。」(刑法的には、虚無の事実を告げ金品を搾取したのでこの時点で詐欺罪が成立する。)

そこで彼女が取り出したの2枚の小切手だった。「これは保険会社から弁護士へ支払われた保険金の小切手です、この通り既に支払われておりここに受取人のHiroo Yonezukaのサインがありますが、これは貴方のサインではないのですか?」

●「イイエ、これは私のサインではありませんし、なにしろこの様な小切手を今まで見たことはありません。」

事件の核心はここであった、悪徳弁護士は既に保険会社から$8,000を小切手2枚で合計$16,000の支払いを受けており、それを既に彼自身が勝手に私の名前でインチキ・サインをして換金して着服していたのだ。

(アメリカでは弁護士も依頼人から弁護士料金を貰えないこともあるので、それを防ぐためこの様な事件依頼の場合、弁護士が保険会社へ請求して弁護士が先ず保険金全額を最初に受け取り、その中から自分の取り分30%を差し引き、残り70%を依頼人へ支払うのが普通である、だが悪用すればこのシステムの為このような着服・詐欺事件が起こる下地があるのだ。)

裁判長がその後少し補強質問をしたところで、彼女が最後の質問と断って私へ尋ねてきた。「この弁護士に多くの日本人が被害にあっているとの報告が協会へきています、でも実際被害に遭った日本人は被害届は出しますが誰もが刑事告訴までしようとしません、貴方の様な例は珍しいのです、貴方は何故ここまでやろうとしたのですか?」彼女の個人的興味か公的な質問か一種その質問に戸惑い・驚いたが・・

「若いときに誰でもそうであるように、日本人の私も‘アメリカ‘それは自由と正義の国の象徴である、と、ずっと思っていました、その憧れの国アメリカへ自分が来て、そしてこんな事件が自分に襲い掛かるなんて全く思ってもいませんでした。 確かにカルフォルニア州弁護士協会のお陰でお金は戻って来ましたがこんな弱者を食い物にするような弁護士がアメリカに居ること自体が私にはとても許せなかったのです。 また、こんな悪徳行為がまかり通るなんて・・昔夢見たアメリアカ、夢の国アメリカには、もはや正義は存在しないのか?・と、思うと私はとても悲しかったしそんなアメリカの現実に憤りを覚えたのです、ですからその反動としてこの裁判を通じてアメリカの正義は一体何処へ行ってしまったのか? もう一度自分自身で確かめたかったのです。だから私は民事で取り戻したお金$8,000を使い切ってでも良い、その金なも10回は米国へ裁判に来れる、と考えて米国で刑事訴訟を起こして判決がどちらに出ようと、裁判所で自分の考えを述べ、裁判を通して私の考えがアメリカの法正義の中でどの様に処理されるか確かめたかったのです、自分を納得させるためにも・・絶対にこの裁判をやりたかったのです。」

裁判長は優しく子供を見るような微笑を浮かべながら答えた「日本人の貴方がアメリカを本当に愛してくれてありがとう、アメリカ人の私もアメリカがそのような理想な国であって欲しい何時も思っています。 でも、貴方のような日本人を今まで全く見たことがありませんでした。これにめげず今後はアメリカが貴方にとって良い国であることを願っています。」

 「これにて閉廷」コンコンとハンマーは振られ2時間程度の尋問は終わった。

尋問の後でアメリカらしさが・・

しかし、これからがアメリカである、今まで速記用タイプライター(3本指で操作する特殊なタイプライターの事)を打っていた黒人の書記官が私に握手を求めながら話し掛けてきた「俺、実は映画に出たことあるんだ。」と言ったので「どの映画?」と聞いたら、「バーバラ・ストライサンダーが殺人治事件に巻き込まれ裁判の被告となる映画で、彼女が法廷に立つ時場面で横で速記を取っている役さ!」「それじゃ地のままじゃないか・・」と、「でも、ビデオも出ているからぜひ見てくれ。」・・一仕事終えれば全く対等な私的なオープンな会話になれるのがまさにアメリカである。

公式通訳とも言葉をかわした・・実は彼は最後の裁判長の最後の質問の私の答えの一部分を訳さなかったのだ・・何故裁判を起こしたか?の質問には私は2つ答えをしたのだ。 後半の答えは「理由2は、このまま私が行動を起こさなかったら相手は更に付け上がり次々と日本人が騙されることになる、結果的には彼らには日本人はカモ・ネギのお得意様となってしまう、それを思うと悔しくて、お前らなんかに舐められてたまるか! との日本人としての気持ちがありました。」と証言したのですが、なぜか本番では通訳はその部分を訳しませんでした。 「何故あの部分は訳さなかったのですか?」「米塚さん、流石にあの言葉はまずい・・やはりこの国は白人国家なのです、人種差別は依然とあるのです。」

多分彼は日系2世としてアメリカでの人種差別を身を持って体験した時代を過ごしたのだろう、その経験が瞬間的にこの部分通訳カットに走らせたのではないだろうか、と私は想像した。
 私もアメリカへ来て何人か第二次世界大戦で砂漠の強制収容所に入れられた日本人に会った事があったので、黄色人種の日本人にとって決してアメリカも理想の国ではなかった事を聞いていたので、その推測が一瞬脳裏を横切った。

私服に着替えた裁判長に「この悪徳弁護士は他に悪事を重ねているとの事だが、自分の調書と共に他の事件の裁判記録を欲しいのだが?、それと一度カルフォルニア州弁護士協会を尋ねて見たい。」と聞いたら、とっぴな私の要求にちょっと一瞬彼女は躊躇ったが苦笑しながら「そうね今度は私が協力する番ね。」と、どちらもOKしてくれた。

 裁判の為の2回目のLAX行きで中心街にあるカルフォルニア州弁護士協会を尋ねた、建物は例のOJシンプソン妻殺害事件で有名になったロスアンゼルス地裁の前にあった、入室は極めて厳重で3重チェックで、各ゲート毎に面会人へ面接予定者の有無の確認の電話をしていた。
 何しろ判決に不服で裁判所で機関銃をぶっ放す人がいる国だから、これも当然のシステムだろう

彼女の案内で実際の弾劾裁判所の法廷も見せてもらったが、なんとこの建物の中に3法廷も設置して有ったのには驚いた、これはアメリカに如何に悪徳弁護士がはびこっているかを示す明確な答えでもある。こんな光景を目の前にしたので、10年前に読んだ「誰もが誰もを訴える社会アメリカ」を思い出した。

彼女の執務室へ戻ると、大型デスクの上にはアメリカ人らしく家族の写真が立てかけてあった。

「カルフォルニア弁護士協会の裁判長として同じ弁護士仲間を裁くのをどう思うか?」と、ズバリ聞いてみた。彼女は率直に「昨日まで同じ職業の仕事仲間だった人を裁くのはとっても辛い仕事、彼だって裁判に負ければ2度と弁護士ができないのは当然分かっている訳だから何とか逃れようと必死で反撃してくるの・・でも今回は残念ながら彼に勝ち目は無いわ。」

法に生きその法で自身が裁かれる世界である。

「貴方の様な裁判長の席に僕は座ることが一生無いだろうが、映画でみるアメリカの弁護士はカッコイイし一度は憧れたことがある、お願いがあるのだがそこに座って写真をとっても良いか?」と聞いたら「No Problem!」いとも簡単にOKがでた。

僕は例の打ちでの小槌を右手にポーズをとり彼女はシャターを押してくれた。(その写真目下捜索中!)



公式記録到着

 それから1年も経っただろうか・・・再び日本へ戻って東京での仕事に明け暮れる毎日の冬のある日、アメリカから分厚い封筒がアパートへ届いた、それはあのヒルトンホテルでの尋問調書と他の事件の記録であった。エドワード裁判長が約束を守ってくれたのだ。

初めてアメリカの尋問調書を読んでみて、尋問調書のその記録の細かさに驚いた、まるで芝居のト書きのようである、私が「エーーとその・・」と躓きながら答えているとその通り英語に訳され記録されているのである、また途中ボーイが掃除で部屋を訪れた時などはまさにト書調で。

「この時ドアーがノックされ、ボーイが入ってくる・・」と書かれていたのである。






尋問調書の記録。

 しかし他の事件の記録を見るとまさに悪徳弁護士、どうも日本語電話帳へ宣伝を載せてひかかってくるウブな日本人を相手に悪事を相当働いていたらしく、色々な日本人を騙している記録が調書に出てくる。その多くは学生へ「移民VISAを取ってあげる。」とか言って$3,000-$5,000を騙しているケースが多い。多分これはこのくらいの金額なら日本人はアメリカで裁判を起こしてまで取り戻そうと考える人がいないからであろう、また裁判をおこしても開廷前に本人の滞在VISAが切れてしまう事が考えられる。・・要するに、そこの処を悪徳弁護士に足元を見られてしまったのだ、まー日本人が舐められていたのである。

そして1ヶ月して別の封乙が届いた、「被告人を弁護士資格停止5年に処す。」との、判決文が入っていた。

やった!! 勝った。 事件から3年半、3度ほどアメリカへ行ったが、日本の田舎の工卒でも突撃精神のお兄ちゃんがプロのアメリカの弁護士にアメリカでの裁判に勝ったのである。

エドワード裁判長へ電話して「これを読むと彼は5年で復帰できる様にも思えるが?」 と聞いたら彼女は笑って答えた。

「判決文では5年後に見かけ上復帰できるように読めるが、実際、今度彼が復帰するには10人の弁護士の保証人が必要なの、もちろんそんな保証人になるような危険を冒す弁護士仲間は誰もいない、だから事実上の彼の弁護士人生はこれで終止符を打たれたのたのよ。」

電話の向こうの彼女の返事は心地よかった、これで戦いは終ったのだ。

判決文


    アメリカでのお話 終わり      2003年4月19日 up