3W6WE/3W6LK |
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| 3W6WE Steven /3W6LK |
| 3W6KAを設置してQRVした、23mh3エレ流石に米国東海岸まで良く飛ぶ様になった。そして1週間したらSaigonのBoxへ1通のair mailが届いた。 K2WEからであった。 「ベトナムから59の信号で驚いている、僕にはベトナムには青春の思い出が一杯有る、是非ベトナムへ行きたい、だが実は私は元ベトナム戦争に参加した米国兵である、一般の観光VISAさえ難しい状態なのにましてやアマチュア無線などできるであろうか?」 この一つの手紙でも米国とベトナムが戦争をしていた事実がくっきりと浮かび上がる、そして1991年当時はW6KG/W6QLコルビン夫妻に対してベトナムがVisaを発行しなかった事を思い出した。 早速3W6LI/3W6ARに相談して,何とかしようではないか・・と努力して、VARCの保証でVISAを発行してもらい、ハノイのMPTと交渉して運用許可もSSB-WPXに何とか間に合った。 彼はW2LKと一緒にやってきた。ベトナム戦争後初めてQRVする許可をもらった米国人として既に二つの雑誌から原稿を依頼されていた程だった、しかしh、彼らのQRVをDXCCはまだ信じていなかった。(XWと一緒でMPTの無許可QRVで”俺は許可をもっらた”と言うのが多かった) 彼らは免許を早速ARRLへFAXしたのを覚えている。 サイゴンの3W6KA局を利用してWPX Contestを3W6WE/3W6LKで楽しんだ後、彼の連隊のキャンプのあった中部ベトナム.フエへ飛んだ,私とHauさんと彼ら二人である。 フエはベトナムの古都であり世界遺産にも指定されている、彼が「フエってこんなにも綺麗な町だったのか・・」のため息に驚いた僕は・・・「だって君はここに居たのだろう・・」、 そこで私も初めて知るのだが彼ら米国兵はフエ市内より相当離れたところにキャンプしており、また一般のベトナム人と接触を禁じられていたので河で仕切られていた旧市内へは立ち入った事が無かったのだ。(ベトナム戦争関係の本を読むと一般市民と区別できないベトコンに米国軍が悩まされていたか良く分かる) フエにはフエ川が流れておりこの岸に沿うように寺院が点在している、これを船でゆっくり巡り歩くのが楽しい。
フエ川をバックに 3W6WE,3W6EZD,3W6LK 川を下ってある寺に来たら、そこには学生が大勢いた、どうも授業の歴史探訪の一環らしい、そのうちいかにも外人の風貌のSteve(当 然目立つ)へ女の子が話し掛けてきた「May i speak English?」そう・・私達日本人も修学旅行で初めて見た外人へ英語を使って話し掛けて見ようと思った事がある・・あれである。 事情の分からないSteveはキョトンとしていたので、私が説明したら「Oh! Yes No problem」と言ったら彼女が手を上げたのでたちまち10人近くの女の子に囲まれてしまった。 その間男は遠まきにしてニヤニヤしているバカリだった。彼いわく「俺はまるでプレスリーみたいだ」聞けば彼女らはフエ教育大学の学生との事、そしてなんと二人の娘は熱心に夜ホテルまで訪ねて来て英語を練習していった。・・・・(いやーべトナムは女の国と言うのが良く分かし、このやる気いつかはタイを追い抜くと想像している。) しかし悲しい事もあった、次の寺へ行った時のことである、当時はまだお土産産業と言うものはベトナムには無くてTシャツさえ売っていなかった、地元の果物とか竹細工を売っていたが、その中には手りゅう弾とか薬きょうもあった、その中で僕は認識票を見つけた、例の戦争で死んだとき名前を特定するための認識番号を刻印したアルミのプレートである。(通称ドッグ・タッグと呼ばれている) 日本の戦国時代と同じで、雑兵の特典で死んだ死体から盗ってきたのだろうか?「こっれて本物」と彼に聞いてみた・・・しばらく無言で食い入るように見つめていた彼は「 I am very lucky!」と呟いた・・ 「これは本物だ、そして何とこの番号と僕の番号は100番も違わない、彼はべトナム戦争で死んでこの犬の鑑札の札だけがベトナムに残った、僕は生きて再びベトナムを訪れることが出来た、もうちょっと戦況が違っていたらどうなっていただろう・・なんて僕は幸運なんだろう・・」 私はとても単純に「You are lucky」とは言えずに返す言葉を失った。 ◆ プロローグ 翌年、彼は奥さんとともに再びべトナムを訪れている。 彼とはニュヨーク、デイトン、カルフォルニア/サンタバーバラでも再会している。そして彼はいつも言っている「もう20年若かったら、僕はきっとベトナムに住んでいたと思う」 |