カンボジア今昔物語
1992-2005年
29JAN.2005 Bangkokにて
米塚廣雄
2005年正月である。 私はカンボジア第二の都市、港町・リゾート市でもあるシハヌークビルのアマチュア無線用別荘?/DXshack−XUからコールサイン/XU7AAAを使って無線設備の修理・アンテナ(ANT)のメンテナンスを兼ねて10日間ほど滞在した。 今年は無線の電波伝搬コンデションは良くなく、欧州、北米とは交信は難しかったので日本相手にラグチュー(おしゃべり)をしていた。
その相手の無線局仲間のおなじみさんに「ホームページ良く読んでいますよ、やはり実際に体験された米塚さんの話は面白いですね、更新楽しみにしています。いずれ本にして下さい直ぐに買いますから。」と、何人の方にも言われた。・・・・そうか、最近更新をサボっているからな...[ネタは幾らでも有りますから・・早速再開します。」と答えた手前ここに追加更新することになった。
それではちょっと書いてみようと思った事は表題のカンボジア今昔物語である
私がカンボジアと関わりを持つようになってからかれこれ13年近くになろうとしている。もちろん1980-1990年時代は市民虐殺で有名なカンボジア・ポルポト時代から数えてである。
実は私の取得したアマチュア無線の免許の発行所/カンボジア政府はこの13年間に3回変わっている。 要するに革命が起こったのである。自分が訪問する相手の国・政府が3回も変わる、こんなことを体験できることは平和日本に居てはなかなか想像できないことである。
■ ヘンサムリン時代(ポルポト時代) 1992〜
XU8DX, XU0CW
最初にカンボジアを訪れたのは全くの偶然のきっかけである。1992年当時の私は米国、そして憧れのカリブ海へ通っていて正直アジアにあまり興味がなかったのである。
米国東海岸のニュジャジー州に住んでいた時、招かれて訪れたの地元のハム(アマチュア無線家)の会合で、彼らが彼らから見る地球の裏側であるアジアのアマチュア無線局との交信を特に望んでいるの知った。特に当時はインドシナ半島はすべて共産主義国家でアマチュア無線そのものが自由に運用できる時代ではなかったので交信の機会はますます無かったのだ。
「アジアのどこと交信したいかって? そりゃ日本以外ならどこでも!」 まさに日本のアマチュア無線局が「カリブの何処と交信したいかって? そりゃプエルトリコ以外ならどこでも!」と言うのと同じ気持ちだろう。
そこでカリブ海から日本へ戻ったついでに足を伸ばして香港、とマカオ(ともに中国への返還前)のアマチュア無線の友人宅を訪れて、特に米国からは珍しいマカオからXX9KAとして北米向けて送信してアマチュア無線を楽しんでいた。
そのマカオで日本のアマチュア無線局で電信(いわゆるトンツー)の名手として有名な局であるJA1NUT鬼澤氏が事もあろうに電話で(マイクを通して)外人の女性局とラグチューしているのが聞こえて来た。 私が冷やかしに声を掛けると,鬼澤氏「いやー米塚さんちょうど良かった、貴方どうせ暇でしょう・・カンボジアへ行って彼女にアマチュア無線を教えてあげて下さい。」「え!だってカンボジアっていま内戦中でしょう、そんな処でアマチュア無線なんてできるのですか?」・・とこの単純、明快な疑問に答えたのは鬼沢氏の無線の相手局である女性局であった。「私の名前はソークン、カンボジア郵政省の者だ、この、無線局は郵政省にある。」 なんと自分で自分へ免許しているようなものだ。「この設備は以前訪れたハンガリーの局が残していったものであるが、我々政府はアマチュア無線というものを良く知らないのでぜひプノンペンへ指導に来てほしい。」・・・んんあまりにも通常と異なる状況が生まれた。
(この1992年当時はポルポトの3派連合(日本政府はこちらを承認していた。)と国土の80%を支配していると言われたヘンサムリン政権(プノンペン政府とも言われた、今のフンセン首相は当時この政権の外務大臣)がタイの国境沿いで内戦を繰り返していた)
「処で貴方の国(ヘンサムリン政権のカンボジア)へ行けるのか?」との単純な質問にソークンの答えは明確ではなかった。(ヘンサムリンはベトナム軍の力を借りてポルポトをタイ国境へ追い詰めて政権を樹立したので、西洋諸国、日本からもベトナムの傀儡政権とみなされて西側諸国からは承認されていなかった。)
何しろ日本とは国交が無いのだから・・相手もそこまでは分からない。「私も良く分からない、でもベトナムへサイゴンへ来ればそこにはカンボジア領事館があるのでそこへ郵政省から招待状を送るのでとにかく連絡の取れるサイゴンまで来てほしい。」との事であっ
■ 「国交のあるカンボジア政府は所在不明です。」
バンコク日本大使館にて
「あのーカンボジアへ行きたいのですが?」タイの日本大使館の窓口で尋ねた。
「貴方が行きたいのはプノンペン政府ですね、そこは当日本とは国交がありません、要するにはそこは日本が考える国ではありません、そういう所へ行くのは貴方の自由ですが、そこが正式な国交のない国である以上当局は貴方へ何の援助、保証もしませんのでそのつもりで・・」
「それでは逆に日本政府が承認している正式な国のカンボジアへ行きたいのです、アマチュア無線免許申請の為に担当の郵政省の住所と電話番号を教えてください。」
「3派連合政府(所謂ポルポト派政府)は確か・・タイとカンボジアの国境のジャングルの中の何処かに有るのですが・・実際どこに存在するのか私も行ったことが無いので良く分かりません・」
「え! 仮にも日本政府が認める正式カンボジア国の政府機関が実際何処にあるか日本大使館でも分からない、そんな国を堂々と認めるなんて事が今の日本にあるのですか?」
「そう言われましても..3派連合を国として認める、その件は本国の外務省が決めたことで、私は単なる一介の大使館員ですから国家公務員としては本国外務省の指示のまま動くだけですから・・」
と、彼が差し出した名刺には「在タイ日本大使館 兼カンボジア大使館員」と印刷してあった。 自分の勤務場所が一体正式には何処にあるのか分からない外交官もいるのだ・いやそう言う外交政策が我が日本の選択なのか? 何故か割り切れない不思議な気持ちになった。
■ 恐怖のVIP待遇??
とりあえずバンコクから、ベトナムのサイゴンへ飛んだ(当時はまだホーチミン市に改名されていなかった。) ホテルでカンボジア郵政省からの招待状を待っていたが一向にTELEXでの連絡が来ない。(もちろんこの時代のベトナムは外人の宿泊許可が下りるホテルは指定されている。)
1週間後痺れを切らしてカンボジア領事館(当然ヘンサムリン政権の領事館)へ本国へ電話をしてくれる様に窓口で頼んだら、「では電話局へ一緒に行こう。」なんの事はない領事館はお金がなくて国際電話を止められており電話局で私が現金払いで電話を掛けるなら連絡してやる、との事であった。
電話は接続されプノンペンの外務省から郵政省へまわしてもらいやっとソークンが電話口に出た。「Hiroo実は我々はまだ西側の人間を招いた事がなく、貴殿の招待ビザの件はどう処理してよいのかわからないので遅れている、そこで空港へ直接郵政省が迎えへに行くので貴殿はビザ無しで飛んで来てください。」・・「え・・本当!」・大丈夫であろうか? 現在戦争中の国、しかも日本は相手の国を承認していないのでそこは日本が考える国ではない・・そんな所へ100%スパイの疑いを掛けられる、無線機、アンテナ持参でNO-VISAで入国しようと言うのである。 もちろん私は身分保障をしてくれるJICAなどの団体には一切所属していない流れ者である・・・疑わしきはまずは監獄へ! そしてエサを与えずゆっくり取調べ・・これは世界の常識、 んん?これでは空港で即逮捕 ! 特別取調べ室へ直行! 二度と戻れない・・ありえない話ではない。 この状況には流石の私もビビッタ・・でもソークンに対して[良く考えると怖いから貴方の国へは行けない。」 とは「武士に二言は無い・」サムライ国出身の私には今更言えないし言葉だし・・
何故かビザが無くても国際線に搭乗できて、(この時期カンボジアは通常の観光ビザ等発行しない時代)タンソンニャット(ベトナム)ーポチェントン(カンボジア)空港間をプロペラ機が50分程でフライとした。 もちろんポチェントン空港は戦争中であり軍港としして使われており迷彩色のソ連製のヘリコプターが何機か駐機していた、当然撮影禁止。 こんな状況だから降り立ったポチェントン国際空港のトイレも哀れなものだった、何とそこは瓶から手酌で水を流すマニュアル水洗便所であった・・・これがこの国唯一の国際空港か先が思いやられるなー、としげしげ瓶を眺める気持ちは正直情けないやら不安やら・・
乗客が皆入管を通過してしまって、ビザを持たない私だけが一人取り残され係官の注目を一気に集めてしまう。 目と目があったら最後「そこのお兄さんビザが無いなら取調べ室へどうぞ。」と言われそうな雰囲気になってきた。 これはちょとヤバイ状況だな・・と思い始めた頃カウンターの向うからなにやら書類を翳しながら一人の目鼻立ちのハッキリした女性が近づいて来た。「Are you Hiroo ?」との一声でそれがソークンであることが分かった。
彼女が1枚の紙を入管へ示すと、直ぐに無条件通過、そうしてもう1枚の書類を取り出して税関もノーチェックで通過・・そして郵政省指し回しの車で郵政省本局へ。 安堵の気持ちで車の窓から見る初めてのカンボジアは汚い・・それと街角に立つ軍隊が目立つ・・との第一印象だった。

1992 Cambodia
プノンペンとは仏教信仰が厚かったペン婦人の名から取った「ペン婦人の丘」という意味である。その丘にはお寺ワットプノンがありその直ぐ横に立っている中央郵便局と同じ敷地の建物に郵政省はあった。郵政省でソークンの同僚そして上司のラナラート氏(日本で言えば電波局長)に引き合わされる。(彼はその後出世して今やフンセン内閣の重要な地位を占めている。)
カンボジアのアマチュア無線局XU8DXは郵政省技術研究所と言うと聞こえは良いが無線機の修理室の様な部屋に設置してあり、実際に横ではラジオの修理をしていた。 その設置場所から考えてこれはまさに自分で自分に許可を出したアマチュア無線局(または半ば郵政省のプロ局)そのものである。
実は現在カンボジアのアマチュア無線の免許を発行している周理監理部門の部屋がこの部屋そのものである、当然ながら担当のMr.Limは現在この部屋で事務をとっている。 そして部屋の壁に貼られたYaesu 無線のアマチュア無線用の世界地図は当時から貼られていたものである。

現在の免許発行人Mr.Limは旧XU8DX局の部屋である。
初めてカンボジアから電波を出す。
その後運転手と車を紹介される、が私は「貴重な運転手つき車を私ごときが利用するなんてとんでもない、自分はシクロ(人力車)を利用するから心配しないでくれ。」と断ったら「君は郵政省の客人なのだ、君にもしもの事があったら我々の責任になる。この国はいまだ戦争中である、強盗、殺人事件多発で夜のシクロの移動は君の安全と生命を保証できない、当郵政省の車に乗ってもらわなくてはこちらが困るのだ。」・・当事国のお役人が身の安全を保証できない、と堂々と言うのだから、これは怖い話だ・・「あー確かに自分は戦争真っ只中の国に今来て居るのだな・・」と実感せざるを得ない。
朝は8時に運転手が宿泊を指定された私のホテル迎えに来て郵政省へ向かう。 役所でソークンと話をしていたら、ドアーがノックされて客人が来た「自分は外務省の者である、貴殿のビザの件で来た。 ところで何日滞在のビザがほしいか?」 そう言えば自分はNo-VISAで入国したのだった。 入国後にビザの申請をしたのは長い旅行経験ではじめての事であった。(と言うか、そんな事通常ありえないだろう。) そして彼が私の旅券を持ち帰りビザのスタンプを押してまた持ってきてくれた。・・・運転手付き車と言い、外務省自らお出ましと言い、うん〜ん! こりゃ殿様気分? やっぱり私はVIP待遇なのかな?
アマチュア無線局XU8DXのコールさんの言われは、先にこのカンボジアより運用した同じ共産圏の国だったハンガリーのアマチュア無線局が自分のコールサインがHA8だったので、同じようにXU8を希望した為であって、コールさんの数字には意味が無いとのソークンの説明であった。「では自分のコールで運用できるか?」 と聞いたらできるだろう、との事で申請書を書いた。(戦争中の共産主義国家である、アマチュア無線の法律など整備されているはずが無い、当然規定の申請用紙もない。)
私の申請書類はソークンから上司に提出され、さらに上司へ回されて結局郵政省政務次官からお呼び出しが来た。 通された部屋の入り口には銃剣が装備されたライフルを構えた歩兵がドアーの左右と二人立っていた。 案内されたガーラーンとした室内には冷えたコーラが用意されていた。しばらくして郵政省政務次官が入ってきた。
「貴殿はわが国でアマチュア無線を運用したいとの事だが、では我が共産主義国家カンボジアでアマチュア無線を許可すると、どのような国家利益が生まれるのか述べなさい。」まさにこの国らしい質問であった。
試験に合格して申請すればアマチュア無線局の免許が自動的にもらえ、さも国民の権利のように思っている日本では考えた事も無いような質問であろう。それ故に多くの皆さんから寄せられる質問は「そんな質問に一体なんて答えたの?」である。
当時の答えを思いだしてみれば、
「残念ながらアマチュア無線は目に見える様な直接利益を生みださない、これはあくまでも趣味である。趣味のために国家が管理する電波を個人が使うことになるが、それは世界的には認められておりITUもそのための周波数をアマチュア無線の用にしっかり割り当てている。」
「多くのアジアを回って思うことは戦後50年日本の驚異的経済発展をみて日本の様に発展したいと思う国とか指導者が多いことは事実だ、特に私のバックグラウンドであった電子、家電関係はいまや米国をおいにて世界一である。そしてそれを支える日本の技術者の多くは昔ラジオ少年だったりハムだった人たちである。」
「好きこそ物の上手なれ。と言って自分の趣味であればどんな勉強も苦にならないだろう。そしてそこで身に着けた技術、科学的、論理的な考えかた、アマチュア無線を通じて外の世界の知識を得ることがその後の彼らの人生、強いては日本の発展に役立った。 これらの技術は一朝一夕には生まれない。また富士山・ピラミッドの様に裾野を地道に広げ積み重ねる事によって初めて世界に誇るトップの技術が生まれる。その底辺を拡大するの為にも科学少年を生み出すのに役立ったのがアマチュア無線である。」
「昔はソ連も、中国もアマチュア無線は禁止されていたが今は開放され、特に中国では語学の実践学習をかねたアマチュア無線を学校単位で実践して学習している場合が多い。」
と、まー大体この様な趣旨を述べたと思う。
これで納得されたのか、とにかくアマチュア無線の個人局は許可される事になった。肝心なコールサインであるが、もちろん電波法等無いのだからコールサイン発給方法の通達なんて官庁から出ているわけがなく、申請書に自分の好きなコールサインを書くだけである。 「何でも好きなコールで許可される。」と聞いても、いまや希望のコールサインのリクエストの自由が利かない日本のアマチュア無線局には想像できない事だろう、でもこれはある意味では苦労する創生期の開拓者へ許される数少ないご褒美かも知れない。
初めはXU1Aを希望したが、すでにシンガポール9V1の局がこのコールを以前使っていた、ではXU1AAをと言ったらソークンがそんな似通ったコールはやめろ、と、アドバイス。
そこで思い出したのがカリブ旅行でお世話になったジャッキー/F2CWの事である。彼は「俺は世界中のXXXCWのコールで運用するのだ。」と豪語していたので・・茶目っ気を出し一足お先にカンボジアのCWコールを頂くことにした。 数字は多くの国で外人局・特別局に割り当てる0を使ってXU0CWとして申請して許可をもらった。

XU8DXで郵政省から最初の運用 右がソークン XU0CWのQSLカード(交信証明書)
郵政省の職員と一緒に昼食に行った。彼らの希望を聞いたらそこはプノンペンで有名な中華料理店であった。
案内された店は床に食べかすとかティッシュが散らばっている。確かに正式な中華料理は食べかすを床に捨てても良いとは聞いていたが、これほど凄いのは初めて見た。彼らの言い分は「ゴミが多いほどお客が多くて人気があっておいしい店の証明だ。」という事になるのだろうが...
食事をしながらソークンの給料を聞いてみた。「Hirooは夕べ運転手と食事に行っただろう、そのとき貴方が払った代金が私の1ヶ月分の給料と同じだ。」この答えには2重のショックを受けた。 確か夕べ運転手に「これからよろしく..]と食堂へ行きハイネッケンの缶
ビール4本、焼き飯、焼ソバを食べた。それが計$6だった。 ショック! 外人たった一回の食事代が彼らの一ヶ月の給料(760円)と同じとは・・・そして同時に夕べの行動の詳細がすでに運転手から郵政省へ逐次値段まで監視.報告されていたとは..それは私には2重の驚きだった。 そして極めつけは「この店は有名だけど高くて私は来たことが無い、今日初めて来た。」とソークンに言われた事だ、多分払った金額は6人分で$14位だったと思う。でも無理に給料換算すれ日本で言えば10万円の豪華昼食か? 戸惑うばかりである。
「お前のやったことはアマチュア無線免許欲しさの高額賄賂だ!」 と、無線の大先輩に指摘されたら・・どう答えようか??
「これからどうするのだ・」と食事中郵政省の技術員に聞かれた「無線だけやりたい。」とはちょっと言えず「有名なアンコールワットへ是非行ってみたい。」と言ったら一斉に驚嘆の声を上げられた。「陸路はまだポルポトの軍隊が出没するので危険、あそこへ行くのは軍隊のガード付きで飛行機しかない、それは$120、ホテルは1泊$60だ!」月給$6の彼らにしてみれば途方も無い金額の贅沢旅行である。(当時のヘンサムリン政権は外貨稼ぎの為にこの世界的遺産の観光を行っていた、陸路は完全に支配できないので空路でしか移動を認めなく、かつ泊まるホテルは限られていた、それでも夜はドーーン、ドーンと迫撃砲の音が聞こえるホテルとの事であった。
)
彼らのあまりの驚きに私は給料を聞いた後だったのでその差額に「しまった!」と、思ったがもはや後の祭りであった。 それからの私は彼らの前では2度とアンコールワットへ行きたいとは口に出さなかった。
それゆえに私がアンコールワットを観光したのはそれから実に12年後の事であった。
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プノンペンの乞食通り
現在進行形で戦争をしている国(日本大使館に言わせれば国ではないが)へ入国したのは初めてである。 当時のカンボジアはどうであったか? と言えば、街角には兵隊が多く見れれるのは当然としても、彼らがAK-47に代表されるような自動小銃を常に携帯してい光景は見慣れていない私にはやはり不気味だった。
そして更なる驚きは街の中心部に路上生活者が多いことだった、戦場から逃げてきたのだろうか家の無い乞食が一家全員で道路を住処として生活している、といった方が分かりやすいだろうか。空き室のビルの前などは彼らの格好のねぐらで2〜3歳の裸のままの子供を含めた一家6人が夜は路上でダンボールを敷いてゴロンと寝ているのだ。同じ様に路上で立ち木を利用して蚊帳まで吊って堂々と寝ている光景を以前ベトナムでも見たがプノンペンはその数が圧倒的に多い,
市場に近い通りではそんな家族が何組もいて1ブロックがまるで乞食居専用の住区域になっている。そして彼らは用便を路上で直接行うのであたり一面小便臭いことこの上ない、照りつける南国の日差しと路上の悪臭はプノンペンの町を歩くことを最悪の状態にしていた。
カンボジアも熱帯の国である雨季には1日2-3回スコール・夕立が降る。 スコールが降り出すと路上生活者の子供は裸になって(もともと裸の子供も多いが)雨の中で体を洗うのである、スコールを英語でシャワーとも言うがまさに彼らにとって恵みの無料天然シャワーである。またビルを伝ってまとまって落ちて来る大量の水を利用して母親達はこの時とばかりに髪を洗っていた。
プノンペンもアジアの定番に漏れず庶民の食事は路上の屋台である、そこではおかずをお皿のご飯に掛ける、ぶっ掛け飯とかラーメンみたいな麺類が30-50円であった。外人、または金持ちカンボジアが入るような小奇麗のレストランは大体一食100円くらいであった。 しかし、そんな食堂に居ると必ず傷痍軍人と思われる人が店のお客へ「お恵み」と寄って来る、店によっては客が嫌がるのでそんな彼らを店内に入れない所もある。 そんな店で追い出されようとした傷痍軍人が居た、彼の言葉は分からなかったがその雰囲気は「お前らの為にポルポトと戦って負傷した、政府は何もしてくれない、こうやって恥を忍んで施しを受けるしか生きる道が無いのに、そんな俺をお前らは追い出すのか!」と不満気に大声を出しながら去っていった、義足さえ満足に買えないだろう、その後ろ姿は片足に松葉杖であった、そのくたびれたカーキ色のズボンの失った右足の部分が片足で歩くたびに大きく揺れていた。
別の食堂に入った時である、店内はガラーンとして真ん中のテーブルに一組のお客が居た、町を眺められる窓際の席は皆空いていたので私は躊躇わずその席に座った。 が、料理が運ばれてきて直ぐになぜその窓際の席が空いているか分かった。 窓には鉄格子がはまっているがその間から3人の子供の手がいっせいに伸びてきたのだ。 子供は店に入ろうとすると入り口で追い出されるのでこうやって道路から手を伸ばしてお客からオモライをするのだ。 流石にお客はこれではなかなかな落ち着いて食事はできない。 なるほど常連客は窓から遠い店の中央のテーブルで食事をする訳だ。
カンボジア滞在の日本人は6人
ある時食堂で日本語が聞こえた、年配の日本人3人が酒を飲みながら談笑していた。日本人とは珍しいと思って声を掛けてみた、が相手もまさか日本人が突然登場するとは思わなかった様だ。
話を聞いてみるとO木材という日本の会社でカンボジアの木材を日本へ輸出する為にプノンペンへ来たのだと言う。もちろん木材とは国有林の伐採と輸出だろうから国の許可が要る、当然ながら会社はまずその許可を出す、国とは誰かを決めて許可をもらわなくてはならない、その意味では事実上二つの政府が存在している現実がカンボジアにはある、その中で日本政府が国と認めていないヘンサムリン政権を相手に営業許可を申請するのだから思い切った決断をした会社だ。
「いやー何せ戦争中ですから商売は難しいですよ、普通の会社はどこも来ませんよ、だから今カンボジアにいる日本人は私たちを入れてたった6人ですよ。」すると私は7人目・・・だろうな・・・戦争ジャーナリストでもなければ戦争中の国、ましてや日本政府が認めていない国へわざわざ金を掛けて行く人は居ないだろうから。
「貴方はアマチュア無線でこられたのですか? それは金儲けにならないの? 商売でなくて? そう言えばウチの社長が世界の為に17年電波が途絶えているカンボジアでぜひ世界の為にアマチュア無線をやりたいので協力して欲しいと東京の林さんに頼まれて、ここの政府と今交渉していますよ、同じアマチュア無線家ならこの人をご存知ですか?」 これには全く驚いた、東京の林さんと言えばアマチュア無線界ではアジアのスパースターとして有名なJA1UTの事である。
「えーもちろん知っていますよ、昨年カンボジアのポルポト政権のイエンサリから招待を受けてアマチュア無線の免許をもらって17年ぶりにタイの国境近くのカンボジアから運用したとして大きなニュースになり、モービルハムと言う雑誌の表紙やイエンサリと並んでいる写真はグラビアを飾りました、アマチュア無線家ならその事は誰でも知っていますよ、それほど彼は超有名な方ですよ。」と言ったら今度は相手が私以上に驚嘆した。「エ!それは本当ですか? それはマズイ、ここの政府はポルポトと今戦争をしているのですよ、戦争の相手のポルポト政府の招待状を受けた人間をウチの社長が保証してヘンサムリン政権へ推薦する事になってしまいます、そんな事をフンセン外務大臣(現在はカンボジア首相)が知ったらエライことになります、ウチの会社の許可だって取り消されるかもしれません。これは大変だ!」彼は相当に困惑した様子だった。
アマチュア無線は趣味だから政治は関係ない、戦争中でも当事者の両方へ申請書を出して許可される方から運用しよう。との考えもあるのだなー、とその有名な先輩の手法に私も感心したものだった。
闇夜に光る剣
当時のプノンペンは戦時中でもあり、今の様なモニボン通りにカラオケレストランのネオンが輝いている時代では無かった。従って町全体に夜は暗くメイン道路をちょっと横道に入れば真っ暗だし、おまけに道は穴ボコだらけ、下水の蓋が無いところもあり躓いて転びそうになるし、場所によっては強盗は出る状況で外人がまともに安全に歩ける状態ではなかった。
夜 8時郵政省でアマチュア無線運用をしていたがお腹がすいたので夜食をしようとしたが運転手と車が居ない(運転手も公務員なので定時で帰った。)仕方が無いので郵政省の近くのワットプノンの屋台を目指して歩き始めた時、前方の木の下で時々キラリ、キラリと細く光るものが見えた。 何の光だろう?と ゆっくり注意して近づいてみると・・それは歩兵が木に寄りかかって座っていたが居眠り中だったので肩に立てかけた銃剣に月の光が反射して光っていたのだ,居眠るしているからそれが微妙に揺れて冷たい月の光を反射させていたのだった。
ただ昼間のワットプノンの周りには花屋さんが店を並べていた、「戦争中にも花を買って飾る人が居るのだ。」と自分の想像とは違った光景に妙に感心した思い出がある。
またここには動物園もあったが悲しいかな飼育されている動物の種類は3週類しかいなかった。